西暦二〇一八年、八月末日、丸亀城にて――
窓の向こうに、夏の青空が見える。
バーテックスが出現した後も、四国の空は変わらない。いや、空だけでなく、街並み、行き交う車や人々、蝉の鳴き声、瀬戸内海の美しさ――すべてが変わらないように見える。
バーテックス襲来の後、四国には『神樹』という特殊な樹木が出現し、瀬戸内海には巨大な植物組織でできた壁が発生した。神樹は土地神そのもの、壁は四国をバーテックスから守るため神樹が張った結界だと言われている。
この地にいる限り人々は安全である。限られた狭い空間で約束される箱庭の安寧……一部の人は四国を『箱舟』と呼ぶ。神話の洪水に等しいこの災害が終わった後、世界は再び人類の手に取り戻されるという期待も込められているのだろう、と若葉は思う。
(だが……かつてと変わってしまった点は確実に存在する……)
現在、四国の町に通行人の数は少なく、その中にも帽子をかぶっていたり傘を差したりしている者が目立つ。それは単なる夏の日差し対策ではない。
『天空恐怖症候群』。
三年前、バーテックスの襲撃をその身に経験した者の一部は、精神的ショックにより空を見ることを極度に恐れるようになった。その症状を天空恐怖症候群と呼ぶ。重度の者は建物の外に出ることさえできない。
バーテックスは現在も、四国で暮らしている人々の心にも深く爪痕を残しているのだ――
「わ〜かばちゃん」
次の瞬間、若葉の視界いっぱいにひなたの顔が映った。彼女はジト目で、若葉を真上から見下ろしている。
――今、若葉はひなたに膝枕され、耳掃除をしてもらっていた。
「また険しい顔して。過度の緊張、ストレスは体に悪いんですよ。こうなったら……えい!」
「!?」
ひなたの耳かき棒が、若葉の耳孔の中で巧みに動き回る。その心地よさで、若葉の体から力が抜けていく。今の若葉の顔にはさっきまでの険しさなど微塵もなく、まるで母親に抱かれて微睡む子供のような緩みきった顔をしていた。
昔から若葉は、よくひなたに耳掃除をしてもらっていた。今や彼女の腕は、若葉の耳掃除のプロと言っていいレベルである。
「はい、終わりです」
そう言って微笑み、ひなたは耳かき棒を上げた。少しだけ名残惜しみつつ、若葉も身を起こす。
「さて、そろそろ『長野』との通信の時間ですね。行ってきてください」
「ああ」
若葉は傍らに置いてある刀を手に取り、放送室へ向かった。
丸亀城は一部改装され、若葉たちの学校として使われている。改装と言っても、外観はほぼ残したままで、内部の構造を少し変えた程度だ。
その学校に通う生徒は六人のみ。五人の『勇者』と、一人の『巫女』。
勇者とは、土地神から力を授かり、バーテックスに対抗し得る者のことである。若葉も勇者の一人で、三年前のバーテックス襲来の日、その力に覚醒した。四国には五人の勇者がおり、全員がこの学校に通っている。
巫女は土地神の声を聞く者。ひなたがその一人で、三年前にバーテックスから人々を救うことができたのは土地神の声を聞いたからだ。『声を聞く』と言っても、それは言語として伝わってくるのではなく、象徴と暗示によって伝達される。
勇者も巫女も、すべて幼い少女である。穢れを忌み嫌う神に触れることができるのは、無垢な少女だけだからだ。
そして若葉は四国の勇者の中で、暫定的にリーダーとされている。
放送室に入り、彼女は無線機のスイッチを入れて通信を繋いだ。しばらくの雑音の後、落ち着いた少女の声が通信機から発せられる。
『……長野より、白鳥です。勇者通信を始めます』
「香川より、乃木だ。よろしくお願いする」
長野県諏訪湖東南の一部地域には、四国と同じく結界が存在し、人々が暮らせる環境が残っていた。白鳥はただ一人で長野の守護を担う勇者である。
「白鳥さん、そちらの状況はどうだ?」
『芳しくはありませんね。もっとも、そんなことを言えば三年前のあの日から状況が芳しかったことなど一度もありません』
「……違いない」
若葉は口調が暗くならないよう努めた。
元々長野は、諏訪湖を中心としてもっと広い地域が安全に保たれていた。しかしバーテックス出現から三年の間に、次第にその地域は侵攻され、今や保たれているのは諏訪湖東南の一部のみである。
『今は現状維持ができるだけ……ザー……でしょう』
通信の途中で白鳥の声が乱れた。
「すまない、通信にノイズが入ったようだ」
『ああ、現状維持ができるだけでも御の字だと言ったのです。通信のノイズ、最近多くなっていますね』
「そうだな……」
『この通信もいつまで続けられるか……』
考えると少しだけ気分が沈むが、若葉は不安を見せぬよう、敢えて冗談めいた口調で話題を変えた。
「ところで白鳥さん。そろそろ決着をつけようじゃないか……」
『ええ、私もそう思っていたところです。今日こそは雌雄を決しましょう……』
白鳥も不敵に答える――
『「うどんと蕎麦、どちらが優れているか、を!」』
若葉の声と白鳥の声が重なった。
「もちろん、うどんの方が優れているに決まっている。比べるまでもない」
『ええ、比べるまでもなく、蕎麦の方が優れているのは明らかです』
「……何を愚かな。貴様は香川のうどんを食ったことがあるのか? あの玄妙な歯ごたえ、輝かんばかりの純白さ、毎日三食食べても飽きない奥深い旨み……蕎麦など及びもつかん」
『フフフ、あなたこそ長野の蕎麦を食べたことがあるのですか、乃木さん? 気品あふれる香り、程よい細さと喉越しの良さ、麺とつゆの絶妙の交わり……うどんよりも遥かな高みにあります』
若葉と白鳥はお互いの言葉を吟味し、さらに言い募る。
『……まぁ蕎麦は味だけでもうどんに雲泥の差で勝っていますが、さらに健康にもいいのです。蕎麦にはルチンが含まれており、動脈硬化や生活習慣病の予防にも効果的。つまり優れた健康食品でもあるのですよ』
「ふん、何を言うかと思えば。味以外の効能で言えば、うどんは麺類の中で最も消化効率が良い。病や疲労などで身体機能が落ちている者でも素早くエネルギー補給ができ、力がすぐさま体中に行き渡る。これは戦士にとって非常に有効……うどんは至高の戦場食とも言えるのだ」
『…………』
「…………」
二人は思考し、反論の糸口を探す――
と、校内にチャイムが鳴り響いた。今は夏休み中だが、チャイムは毎日正確に同じ時間に鳴る。
「時間切れか。蕎麦は命拾いをしたようだな」
『それはこちらの台詞です。うどんこそ命拾いをしましたよ。……明日からは新学期が始まりますから、通信は放課後の時間にした方がいいですね』
「うむ、そうしよう。では、また明日も。長野の無事と健闘を祈る」
『四国の無事と健闘を祈ります』
若葉は通信を切った。
白鳥と軽口を交わすのは大切な時間だ。四国から出ることのできない若葉にとって、この通信は唯一の『外』との繋がりである。四国以外にも共に戦う仲間がいることを実感できるのだ。